Das Schmierheft

自分が思ったことをできるだけ率直に書きたい

尾崎豊が理解できない理由について考えてみた

尾崎豊のこと、彼の生き様や考え方が好きで好きでたまらなくて、尾崎豊に憑りつかれていて、自分が尾崎豊信者だと思っていて、「尾崎豊を批判する奴はどのような理由であれ許せない!」という偏狭な考えを持っていらっしゃる方は、この駄文を読まないで (仮に読んだとしても時間の無駄でしかありません)、速やかにブラウザの「戻る」ボタンをクリックされることをお勧めします。

これで尾崎豊が好きな人が完全に去ったと思うので、まずは結論から述べたいと思います。

尾崎豊のことが、どうしても理解できません。

その理由をこれからだらだらと書き綴っていくのですが、「歌詞が中二病だ」とか、「ファンが気持ち悪い」だとか、「自己陶酔している」だとか、「自己中心的」だとか、そういった安っぽい批判はしないように心掛けたいと思います。でも、ついつい感情的になってしまうかもしれません。先に言っておくと、理由をあまり上手に説明できませんでした。(でも「生理的に受け付けない」で片付けたくはないです。)

さて、僕が産まれた時には尾崎豊はとっくに亡くなっていたので、彼の名前は音楽番組やニュース番組などを通じて知った訳です。最近でも、命日になるとニュース番組などで特集されます。ライブで本人が「支配からの卒業…」などと歌っている様子や、熱狂的なファンが渋谷クロスタワーのレリーフの前に集まって、地べたに座ってギターを弾きながら大声で歌っている様子などを何回か見たことがあります。(左翼的な)番組で彼のことが取り上げられる度に、その番組の出演者は彼の生き様を称賛しています。そして、番組で彼のことを見る度に、言葉では説明するのが難しいのですが、何となく自分には合わないなという感じがします。見終わった後も、どうしても拭い去ることができない違和感、何かもやもやしたものが残るのです。

なぜここまで自分には合わない感じがするのか、違和感があるのかを知りたいと思いました。そこで、まずは彼がどのような人生を送ってきたのか (メディアがそんなに称賛を浴びせるなら、また命日には何万人ものファンが追悼式に詰めかけたのなら、きっと大した人なんだろうなということもあって) Wikipediaの記事で調べてみました。記事を読み終わった感想は、以下の一行に集約できます。

どこが凄いのか分からないぞ? これじゃあただの不良じゃん

Wikipediaの記事の「生涯」の項を読んですぐに、彼が中学生の頃から不法行為を繰り返していたのだ、ということが分かります。以下に、彼が学生の頃にしでかした悪行について書かれた部分を、Wikipediaの記事から引用しておきます。

  • 小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けていた
  • 生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る
  • 高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学
  • 高校3年生の時に渋谷で同級生達と飲酒した挙句、同じクラスの女子生徒が一気飲みをし急性アルコール中毒で搬送、さらに大学生のグループとパトカーが出動するほど乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される
  • 停学処分は解けたが出席日数が足りず留年となり、自主退学

いや~、それにしてもすごいですね。また、大人になってからは覚せい剤取締法違反で逮捕されているらしいです。しかしこれだけでは、「確かに彼は違法行為を繰り返していたかもしれないが、それを批判するというだけでは、お前は何も分かってない」と言われかねませんね。ところで、彼が楽曲の中で扱ったテーマは、「社会の矛盾に対する鋭い指摘」「強権的な大人による支配からの脱却」「反核」「反戦」といった極めて左翼的なものであったと認識しています。そして、偏差値至上主義、詰め込み教育、受験戦争が過熱しピークを迎え、またそれらの弊害として、学校の勉強についていけない「落ちこぼれ」の学生が、家出、校内暴力、学校の備品の破壊、暴走族への加入、バイクでの暴走、薬物など数々の問題を引き起こしていた1980年代初頭の社会に不満を持った一部の若者が共鳴して、社会現象になったそうですね。

僕はまだ生まれてもいない時代ですから、当時の学校で教わっていたら社会に対する反感が芽生えていたのかもしれませんが、それでも、いくら社会に対して反感を抱いているからといって、それが暴力的な行為を正当化する理由にはなり得ないと思います。それは、当時であっても、バイクでの暴走や窓ガラスの破壊以外に、社会への不満を訴える手段は、新聞や雑誌への投書、デモ活動、芸術活動など数え切れないほどあって、いくら勉強についていけない馬鹿な学生であっても容易に思い付くであろうものばかりだからです。いくら学校に恨みがあるからといって、他に様々な手段が容易されているのにもかかわらず前述したような粗野な方法を選択し、周辺の人々や社会に迷惑を掛けたのは何故なのか、現在学生である自分には全く理解できません。ただ単に、不良である自分が格好いいと思っていた、皆に注目されたいがために不良になった、という風に受け取ってしまいます。冷静さを欠いていたのでしょうか?

尾崎豊もそうです。彼はなぜ不法行為に手を染めたのでしょうか。彼は大人の絶対的支配から抜け出て、自由を獲得しようとしたわけですが、小学校6年生になると半年間登校拒否を続け、また高校も出席日数が足りずに留年したなどとあるように、もともと彼は学校にはあまり行っておらず、自分の好きなように生活していた、言い換えれば、幼い頃には既に有り余るほどの自由を手に入れ、やりたい放題していた(または、やりたい放題に近い状態だった)のだと考えられるわけです。(彼の両親は厳しかったのでしょうが、本当に厳しければ引っ張ってでも無理矢理学校に行かせていたでしょうから、彼の両親は恐らく彼を真っ当な人間にすることを諦め、教育を放棄していたのでしょうか? まあ実際には分かりませんね。) 尾崎豊信者に言わせるならば「自分の生き方探し」です。

そして、幼い頃から大人の言うことも聞かずに放縦な生き方をしていた彼が、「大人たちの支配」や「受験戦争」「学歴社会」を経験することが実際にあったのでしょうか (嫌々ながらも学校に通って、これらを肌で感じ続けていたなら話は別ですが)。僕の目が節穴なだけなのかもしれませんが、彼がそこまで怒った理由が、どこにも見当たらないのです。(確かに彼は根は真面目で繊細だったそうなので、社会の矛盾を常日頃感じていたのかもしれません。また、中学校は通っていたそうなので、当時の辛く厳しい教育を多少は受けていたのでしょう。それが実際に自分の身に耐えられないほどのしかかっていたのでしょうか。)一言でまとめると、「え? 自由が欲しいみたいなことを言ってるけど、結構自由な環境に居たんじゃないの?」「大人たちの支配からの卒業? とっくに卒業してたんじゃないの? なんでそれでもまだ支配されているように感じるの?」ということです。彼が本当に言わんとしたことは分かります。しかし、自分の過去の行いのせいで社会で活躍するすべを失った少年が、ヤケクソ(自暴自棄)になって、これは自分のせいではなくて社会のせいなのだ、と責任転嫁でもしているかのように見えてきてしまうのです。(そして、真面目に生活しても仕方ないからいっそのこと悪事を働いてしまおう、と)

彼は学校に行ける恵まれた環境にいたにも関わらず、学校に入っておきながら行かないで (学費の無駄としか言いようがない)、だらしない生活を送っていたわけで、学校に行きたくても行けなかった人が彼の行動を見たらどう思うかは、想像に難くないと思います。不良の中にも将来出世する人がいる、と思っておられる方も居ると思いますが、それは不良のごく一部の人の逆転劇を取り上げているだけであって、殆どの不良は社会に馴染めず、大人になっても不法行為に手を染めなければ生きてゆくことができないわけです。

「お前は分かってない」「冷めている」などという人がいるかもしれません。(しかし、殆どの学生は、先程挙げたような問題に対して不満を抱いていながらも、何とか我慢してその厳しい時代を生き抜いていったわけです。)他の同年代の人と比較して自由気ままに生き「大人たちの支配」を感じる機会もあまり持たなかった彼が、「大人たちの支配からの脱却」を訴えたところで、果たして説得力はあるのでしょうか。僕には分かりません。「大人の支配から卒業」したいのなら、彼自身が、もっと早く高校を辞めればよかったのです。合理的でしょう? 高校は義務教育ではありませんから。彼は他の人と比べて成長が早く、それ故社会が抱える様々な矛盾にいち早く気づいていたのかもしれませんが、それも、学生時代に不法行為に手を染めた理由にはなりません。だったら最初から音楽活動をしていれば良かったじゃん、という話です。何度も言いますが、不法行為に手を染める人たちが、社会への反抗を美徳へと仕立て上げたところで、誰が彼らに共感するのでしょうか。

それから、勿論彼がそれを意図して歌詞に含めた訳ではないのは分かっていますが、彼の歌詞に感化され、大人への反抗を勝手に正当化し、自分に都合の良いように勝手に解釈し、学校の様々な備品を破壊するような迷惑な学生が多数生じ、その結果学校の治安が乱れ、勉学に励み社会に出世しようとする真面目な学生の邪魔になったのではないか、といったことも考えられるわけです。(歌詞を表面的にしか捉えていないと批判されかねませんが、それにしても一体何枚の学校のまどガラスが彼に影響されて割られたのか気になることではあります。)また、生徒に対して、個性を無視した画一的な授業を行うから学校が嫌だ、とでも思っていたのでしょうが、学校は勉学のためだけにあるのではなく、色んな人と出会いコミュニケーションをとることで社会性、道徳心を身に付ける場でもあります。学校の様々な役割を全否定して行かないということは、若い時期にごく限られた人としか接しないということを意味しますから、そういった人が将来社会に出てやっていける見込みは殆どないでしょうし、社会を理解しているとも言い難いです (尤も、社会に対する反抗心を持っている人は、社会を転覆させようとは思っていても、社会で活躍しようとは思っておらず、関係ないのかもしれません)。

いつまでも社会に対し文句を言ってばっかりいるようでは、自立して生活していけないということは明らかだと思います。現実の社会は確かに理不尽に溢れていて、多くの人もそれに対して怒ることが度々ある訳ですが、それでも何とか冷静さを保ち、こういった様々な理不尽を我慢して受け入れ、(違法行為ではなく)自分の趣味などにストレスを発散させるなどして、なんとか生活しています。それが大人になったということでもあるでしょう。いつまでも駄々をこねているのは子供です。内心は様々な葛藤、悩みを抱え、怒りの感情を持ちながら、しかし表面では大人しくしているという、本音と建前の二面性を尾崎豊は酷く嫌っていたのでしょうが、本音と建前を上手に切り替えられることこそが大人であって、これができない、つまり裏表がなく何でも自分の考えたことを人前で平気で言ってしまうような人だけであったら人間社会は忽ち崩壊するでしょう。大人の持つ二面性は、お互いに摩擦が生じ、関係が悪化しないようにするための潤滑油のようなものだと思います。この考え方は、デモ隊に中指を立てた (立派なヘイトスピーチですよ)、あの香山リカ氏の『気にしない技術』という本の8章に書かれていますので、詳しくはそちらを参照してください。

だらだらと書き殴ってしまいました。結構こじつけが多くて、理論が崩壊していて、これじゃあはっきり言ってお話にならないです(笑)。でも、やっぱりなんかしっくりこないのです。多分、不良だったくせに、一体どの口が「大人たちの支配」なんて言ってるんだ、ちょっと生意気だな、という感情から来るものなのかもしれません。結局、時代が違う、の一言で片付けるしかないのかもしれません。もう少し、しっくりこない理由を考えてみようと思いました。それと、誰か正しい解釈を教えてください。